梨のものがたり① ― 『本草綱目』にみる梨の名前と種類 ―

秋になると店先に並ぶ、みずみずしい梨。実はこの果物、明代の大医薬学者・李時珍がまとめた『本草綱目』にもきちんと項目が立てられ、詳しい記述が残されています。今回から3回にわたって、この古典を手がかりに梨の魅力を掘り下げていきます。第1回は「名前」と「種類」のお話です。

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梨にはこんな別名があった

『本草綱目』によれば、梨には「快果(かいか)」「果宗(かそう)」「玉乳(ぎょくにゅう)」「蜜父(みつふ)」といった別名がありました。朱震亨は「梨」という字は「利」に通じ、体の中を通りをよくして下方へ流す性質を表していると説明しています。

一方で陶弘景は、梨の種類は非常に多いものの、いずれも体を冷やす性質が強く、食べ過ぎると体を損なうため、世間では「快果」と呼ばれるだけで、正式な薬としては使われてこなかったと述べています。つまり梨は「おいしくて爽快な果物」という位置づけが先にあり、薬効が本格的に見直されるのはもう少し後の話だったようです。

梨にもブランドがあった ― 乳梨と鵝梨

宋代の学者・蘇頌は、梨は各地にあるものの薬用として使われるのは主に「乳梨(にゅうり)」と「鵝梨(がり)」だと記しています。

  • 乳梨:宣城(現在の安徽省)産。皮が厚く果肉がしっかりしていて、味の余韻が長い。
  • 鵝梨:黄河の南北一帯に広く産する。皮は薄く果汁が多いが、味の持続は乳梨に劣る一方、香りは非常に良い。

このほかにも水梨、消梨、紫糜梨、赤梨、青梨、茅梨など多くの品種名が挙げられていますが、これらは薬用には向かないとされました。ただし「消梨(しょうり)」だけは別格で、後に李時珍が「消梨は即ち香水梨なり」と補足し、乳梨・鵝梨と並ぶ上質な品種として扱われています。

唐の皇帝を救った「紫花梨」の伝説

とりわけ興味深いのが「紫花梨」にまつわる逸話です。心の熱(心熱)を鎮める効能があるとされたこの梨は、唐の武宗が原因不明の病に苦しんだ際、あらゆる薬が効かない中で青城山の道士がこの梨の絞り汁を献上したところ、たちまち快方に向かったと伝えられています。その後、皇帝はこの梨を探させましたが見つからず、常山郡でようやく一株が見つかり献上されたものの、皇帝はこれを気に入って食べ尽くし、やがて木は枯れて絶えてしまったといいます。伝説とはいえ、梨が単なる果物以上の存在として語られていたことがうかがえます。

李時珍が加えた観察と、産地の格付け

李時珍自身も梨についてかなり詳しい観察を残しています。梨の木は高さ二、三丈(約6〜9メートル)にもなり、葉は先が尖ってつやがあり、細かいギザギザがあること。花は旧暦2月に雪のような白い六弁花を咲かせること。そして「上巳(旧暦3月初めの巳の日)に風がなければその年の実は良い」という言い伝えも紹介しています。

また、梨の種から育てた苗のうち、実際に梨として育つのは十数個の種のうち一つか二つだけで、残りは野生種の「杜(棠梨)」になってしまうという、当時の農業観察に基づく興味深い記述もあります。良い梨を得るには、棠梨や桑の木に接木するのが早く実をつけるコツだったようです。

産地についても細かく記されており、常山真定、山陽鉅野、梁国睢陽、斉国臨淄など、良い梨は主に北方の産だとされ、南方では宣城のものだけが名品とされました。司馬遷の『史記』には、淮水の北や滎陽の南、黄河・済水の間で梨の木を千株持つ者は千戸侯(大名並みの富豪)に匹敵すると記されているほど、梨は当時から経済的にも重要な果物だったのです。

魏の文帝も詔で「真定の御梨は拳ほどの大きさで、蜜のように甘く、菱の実のように歯切れがよく、心の煩わしさを解消してくれる」と絶賛しており、『三秦記』には皇帝専用の庭園で栽培された「含消梨」という五升の器ほど大きな梨が、地面に落ちると割れてしまうため袋で受け止めて収穫したという話まで残されています。

梨の保存の知恵

古人の知恵として、梨と大根を一緒に保存すると年を越しても傷まないという記述も見られます。梨のヘタの部分を大根に挿して保存する方法や、北方では木になったまま梨を包んでおき、冬になってから摘み取るという工夫も紹介されており、当時から梨は大切に扱われる高級果実だったことがわかります。


次回は、いよいよ本題である梨の「薬効」について、『本草綱目』の記述と現代の薬膳の考え方を照らし合わせながらご紹介します。

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