――『竹取物語』に見る、竹という「天地の通り道」
竹林の中で、一本の竹が光っている。
竹取の翁が近づいてみる。すると、その竹の中に、小さな女の子がいる。
誰もが知っている、『竹取物語』の始まりです。
そして、その少女は美しく成長し、やがて月の世界へ帰っていく。
子どものころには「不思議な昔話」として読んだこの物語。しかし、竹という植物そのものを見つめ直したあとで読むと、少し違った物語に見えてきます。
かぐや姫は「竹の中」にいた
まず考えたいのは、なぜ「竹」だったのか。
桃からでもいい。大きな木からでもいい。井戸からでもいい。それなのに、かぐや姫は、
竹の中から現れます。
しかも、その竹は光っている。
つまり、竹 → 光 → 生命
という順序で、物語が始まります。
竹は地中に根を持っています。一方で、空へ向かってまっすぐ伸びる。そして、その内部は空洞です。
つまり竹は、地・空・天
の間を通り抜けるような姿をしている。
そこに「天上の存在」であるかぐや姫が宿っていた。これは、非常に象徴的です。
竹は「器」だったのではないか
竹の特徴を思い出してください。
中が空いている。空いているから、何かを受け入れることができます。
これは「竹が実際に神霊を宿す器である」という意味ではありません。しかし、象徴として見るなら、
中空の竹=何かを迎え入れる器
というイメージが生まれます。
地鎮祭の竹にも、似たような面白さがあります。地鎮祭では、青竹などを四隅に立て、注連縄をめぐらせて祭場をつくり、神さまを迎える神籬につながる空間を設けます。
つまり、
竹によって「こちら」と「あちら」の境界をつくる。
一方、『竹取物語』では、
竹の中から「あちらの世界」の生命が現れる。
この二つを並べると、とても興味深いのです。
地鎮祭の竹と、かぐや姫の竹
| 竹の役割 | |
|---|---|
| 地鎮祭 | 人間の世界に、神さまをお迎えするための境界をつくる |
| 竹取物語 | 異界の生命が、人間の世界へ現れる入口になる |
どちらにも共通しているのは、
竹が「境界」に立っている
ということです。
ここに、竹の霊性を感じるのです。
そして、かぐや姫は月へ帰る
物語の最後。かぐや姫は、月の世界へ帰ります。
ここで物語は、
天から地へ降りてきて、再び天へ帰る
という循環になります。
これを竹の姿と重ねてみましょう。
竹は、地中に根を張る。そして、地上へ伸びる。さらに、天へ向かう。
つまり竹そのものが、地 → 天
という方向性を持っています。
だから『竹取物語』の、
月から来る → 地上で生きる → 月へ帰る
という物語は、竹の「天地をつなぐ姿」と重ねて読むことができます。
もちろん、これは文学的な象徴解釈です。『竹取物語』が「竹は天地をつなぐ植物だ」と説いているわけではありません。けれど、竹という植物の姿を知った上で物語を読むと、
「なぜ竹だったのか?」
という問いが、とても面白くなってくるのです。
竹は「昇る生命」の象徴
ここで、前回の「竹水」に戻ります。
竹は地から水を受ける。そして、その水は竹の生命活動を支える。地下茎を通して竹同士が水をやり取りすることもあります。そして竹は上へ伸びていく。
この姿を東洋医学的に眺めるなら、
地の水を受け、生命が上へ伸びていく。
つまり、
「地の水 → 木の生命 → 天へ向かう」
という循環です。
これは「水がそのまま天へ飛んでいく」という単純な話ではありません。水は生命に取り込まれ、木となり、葉となり、光を受け、そして生命の循環の一部になる。
竹は、その姿を目に見える形で見せてくれます。
竹は「空」である
そして、最後にもう一度、
竹の中空
に戻りましょう。
東洋思想では、「空」は単なる「何もない」という意味だけではありません。
空いているから、受け入れられる。空いているから、通すことができる。空いているから、響く。
竹林に風が通ると、
サワサワ……
と音がします。竹の葉が風を受けて揺れる。竹そのものは動かないように見えても、風が通れば音が生まれる。
そこには、
「空いているからこそ、外界と響き合える」
という姿があります。
これは身体にも通じるように思います。身体も、何もかもを詰め込めばいいわけではない。余白がある。流れがある。通り道がある。だからこそ、生命が動く。
「竹の霊性」とは何なのか
ここまで三回にわたって、竹を眺めてきました。
地鎮祭の竹。竹水。そして『竹取物語』。
この三つを重ねてみると、竹には三つの顔が見えてきます。
① 竹は「境界」である
地鎮祭では、竹が祭場を囲みます。日常と聖域の境界。人間の世界と、神を迎える空間の境界。
② 竹は「通路」である
竹は地中の根から水を受け、生命を上へ伸ばす。地下茎によって、竹と竹の間にも水や資源のやり取りが生じる。竹は、生命を通すものとして見ることができます。
③ 竹は「器」である
その内部は空洞。『竹取物語』では、その竹の中からかぐや姫が現れます。竹は、何かを宿す空間として描かれているのです。
🎋 竹は「天地の柱」
こうして考えると、私は竹を一本の植物というだけではなく、
「天地の間に立つ柱」
として見たくなります。
根は地にある。水を受ける。内部を通す。節を越える。天へ伸びる。そして、その中は空いている。
だから竹は、
- 地に根を張りながら、天を受け入れる。
- 水を受けながら、生命を上へ運ぶ。
- 節を持ちながら、流れを止めない。
- 空洞でありながら、決して弱くない。
そんな植物なのです。
🌿 東洋医学から竹を見る
東洋医学では、自然と身体を切り離して考えません。天と地の間に人間がいる。自然界にある「昇る」「降りる」「出る」「入る」という動きは、身体の中にも存在する。
だから、竹を見ることは、単なる植物観察ではありません。
- 竹が地から水を受けて上へ伸びる姿を見て、「自分の身体の中では、水はどのように動いているのだろう?」と考える。
- 竹に節があるのを見て、「自分の人生にも節目があるな」と気づく。
- 竹が風にしなる姿を見て、「強さとは、硬さではなく、しなやかさなのかもしれない」と思う。
- 竹の中が空洞であることを見て、「空いているからこそ、流れが生まれる」と気づく。
これこそが、自然から養生を学ぶということなのかもしれません。
🎋 竹から学ぶ、ひとつの生き方
竹は、無理に空へ伸びようとしているようには見えません。
地に根を張る。水を受ける。節をつくる。風が吹けばしなる。それでも、また立ち上がる。そして、上へ伸びていく。
最後に、竹から一つの言葉をいただくなら――
「根を忘れず、空を恐れず、節を越えて伸びていく。」
これが、竹という植物の姿なのではないでしょうか。
『竹取物語』のかぐや姫も、竹の中から現れ、地上で人々と暮らし、最後には月へ帰っていきました。
地から生まれ、地上を生き、そして天へ帰る。
その物語を、一本の竹が静かに立っている姿と重ねてみる。すると竹林は、ただの植物の集まりではなく、
「天地のあいだで生命が循環している場所」
に見えてきます。

🎋 三回シリーズ・まとめ
| 回 | テーマ | 竹の姿 |
|---|---|---|
| 第1回 | 地鎮祭の竹 | 竹は「境界」をつくる |
| 第2回 | 竹水 | 竹は「水と生命を通す」 |
| 第3回 | 竹取物語 | 竹は「異界と現世をつなぐ器」として描かれる |
そして三つを結ぶと――
竹とは、天地の間に立つ「生命の柱」なのかもしれません。
地に根を張る。水を受ける。中を通す。節を越える。空へ伸びる。そして、また次の生命へつながっていく。
私たちの身体もまた、天地の間にあります。地から食をいただき、天から光や空気をいただき、その間で生命を営む。
そう考えると、一本の竹を眺めることも、ひとつの養生になるのかもしれません。
竹林に入ったとき、少しだけ立ち止まってみてください。
- 竹の根は、どこにあるのか。
- 竹は、どこへ伸びているのか。
- そして、その「空洞」は、何を通しているのか。
そこに、東洋医学が大切にしてきた、「天地人」
の姿が、静かに見えてくるかもしれません。


