「竹の霊性と東洋医学」第3回                     竹の中から、なぜ「かぐや姫」が現れたのか

――『竹取物語』に見る、竹という「天地の通り道」

竹林の中で、一本の竹が光っている。

竹取の翁が近づいてみる。すると、その竹の中に、小さな女の子がいる。

誰もが知っている、『竹取物語』の始まりです。

そして、その少女は美しく成長し、やがて月の世界へ帰っていく。

子どものころには「不思議な昔話」として読んだこの物語。しかし、竹という植物そのものを見つめ直したあとで読むと、少し違った物語に見えてきます。

かぐや姫は「竹の中」にいた

まず考えたいのは、なぜ「竹」だったのか。

桃からでもいい。大きな木からでもいい。井戸からでもいい。それなのに、かぐや姫は、

竹の中から現れます。

しかも、その竹は光っている。

つまり、竹 → 光 → 生命

という順序で、物語が始まります。

竹は地中に根を持っています。一方で、空へ向かってまっすぐ伸びる。そして、その内部は空洞です。

つまり竹は、地・空・天

の間を通り抜けるような姿をしている。

そこに「天上の存在」であるかぐや姫が宿っていた。これは、非常に象徴的です。

竹は「器」だったのではないか

竹の特徴を思い出してください。

中が空いている。空いているから、何かを受け入れることができます。

これは「竹が実際に神霊を宿す器である」という意味ではありません。しかし、象徴として見るなら、

中空の竹=何かを迎え入れる器

というイメージが生まれます。

地鎮祭の竹にも、似たような面白さがあります。地鎮祭では、青竹などを四隅に立て、注連縄をめぐらせて祭場をつくり、神さまを迎える神籬につながる空間を設けます。

つまり、

竹によって「こちら」と「あちら」の境界をつくる。

一方、『竹取物語』では、

竹の中から「あちらの世界」の生命が現れる。

この二つを並べると、とても興味深いのです。

地鎮祭の竹と、かぐや姫の竹

竹の役割
地鎮祭人間の世界に、神さまをお迎えするための境界をつくる
竹取物語異界の生命が、人間の世界へ現れる入口になる

どちらにも共通しているのは、

竹が「境界」に立っている

ということです。

ここに、竹の霊性を感じるのです。

そして、かぐや姫は月へ帰る

物語の最後。かぐや姫は、月の世界へ帰ります。

ここで物語は、

天から地へ降りてきて、再び天へ帰る

という循環になります。

これを竹の姿と重ねてみましょう。

竹は、地中に根を張る。そして、地上へ伸びる。さらに、天へ向かう。

つまり竹そのものが、地 → 天

という方向性を持っています。

だから『竹取物語』の、

月から来る → 地上で生きる → 月へ帰る

という物語は、竹の「天地をつなぐ姿」と重ねて読むことができます。

もちろん、これは文学的な象徴解釈です。『竹取物語』が「竹は天地をつなぐ植物だ」と説いているわけではありません。けれど、竹という植物の姿を知った上で物語を読むと、

「なぜ竹だったのか?」

という問いが、とても面白くなってくるのです。

竹は「昇る生命」の象徴

ここで、前回の「竹水」に戻ります。

竹は地から水を受ける。そして、その水は竹の生命活動を支える。地下茎を通して竹同士が水をやり取りすることもあります。そして竹は上へ伸びていく。

この姿を東洋医学的に眺めるなら、

地の水を受け、生命が上へ伸びていく。

つまり、

「地の水 → 木の生命 → 天へ向かう」

という循環です。

これは「水がそのまま天へ飛んでいく」という単純な話ではありません。水は生命に取り込まれ、木となり、葉となり、光を受け、そして生命の循環の一部になる。

竹は、その姿を目に見える形で見せてくれます。

竹は「空」である

そして、最後にもう一度、

竹の中空

に戻りましょう。

東洋思想では、「空」は単なる「何もない」という意味だけではありません。

空いているから、受け入れられる。空いているから、通すことができる。空いているから、響く。

竹林に風が通ると、

サワサワ……

と音がします。竹の葉が風を受けて揺れる。竹そのものは動かないように見えても、風が通れば音が生まれる。

そこには、

「空いているからこそ、外界と響き合える」

という姿があります。

これは身体にも通じるように思います。身体も、何もかもを詰め込めばいいわけではない。余白がある。流れがある。通り道がある。だからこそ、生命が動く。


目次

「竹の霊性」とは何なのか

ここまで三回にわたって、竹を眺めてきました。

地鎮祭の竹。竹水。そして『竹取物語』。

この三つを重ねてみると、竹には三つの顔が見えてきます。

① 竹は「境界」である

地鎮祭では、竹が祭場を囲みます。日常と聖域の境界。人間の世界と、神を迎える空間の境界。

② 竹は「通路」である

竹は地中の根から水を受け、生命を上へ伸ばす。地下茎によって、竹と竹の間にも水や資源のやり取りが生じる。竹は、生命を通すものとして見ることができます。

③ 竹は「器」である

その内部は空洞。『竹取物語』では、その竹の中からかぐや姫が現れます。竹は、何かを宿す空間として描かれているのです。

🎋 竹は「天地の柱」

こうして考えると、私は竹を一本の植物というだけではなく、

「天地の間に立つ柱」

として見たくなります。

根は地にある。水を受ける。内部を通す。節を越える。天へ伸びる。そして、その中は空いている。

だから竹は、

  • 地に根を張りながら、天を受け入れる。
  • 水を受けながら、生命を上へ運ぶ。
  • 節を持ちながら、流れを止めない。
  • 空洞でありながら、決して弱くない。

そんな植物なのです。

🌿 東洋医学から竹を見る

東洋医学では、自然と身体を切り離して考えません。天と地の間に人間がいる。自然界にある「昇る」「降りる」「出る」「入る」という動きは、身体の中にも存在する。

だから、竹を見ることは、単なる植物観察ではありません。

  • 竹が地から水を受けて上へ伸びる姿を見て、「自分の身体の中では、水はどのように動いているのだろう?」と考える。
  • 竹に節があるのを見て、「自分の人生にも節目があるな」と気づく。
  • 竹が風にしなる姿を見て、「強さとは、硬さではなく、しなやかさなのかもしれない」と思う。
  • 竹の中が空洞であることを見て、「空いているからこそ、流れが生まれる」と気づく。

これこそが、自然から養生を学ぶということなのかもしれません。

🎋 竹から学ぶ、ひとつの生き方

竹は、無理に空へ伸びようとしているようには見えません。

地に根を張る。水を受ける。節をつくる。風が吹けばしなる。それでも、また立ち上がる。そして、上へ伸びていく。

最後に、竹から一つの言葉をいただくなら――

「根を忘れず、空を恐れず、節を越えて伸びていく。」

これが、竹という植物の姿なのではないでしょうか。

『竹取物語』のかぐや姫も、竹の中から現れ、地上で人々と暮らし、最後には月へ帰っていきました。

地から生まれ、地上を生き、そして天へ帰る。

その物語を、一本の竹が静かに立っている姿と重ねてみる。すると竹林は、ただの植物の集まりではなく、

「天地のあいだで生命が循環している場所」

に見えてきます。


🎋 三回シリーズ・まとめ

回テーマ竹の姿
第1回地鎮祭の竹竹は「境界」をつくる
第2回竹水竹は「水と生命を通す」
第3回竹取物語竹は「異界と現世をつなぐ器」として描かれる

そして三つを結ぶと――

竹とは、天地の間に立つ「生命の柱」なのかもしれません。

地に根を張る。水を受ける。中を通す。節を越える。空へ伸びる。そして、また次の生命へつながっていく。

私たちの身体もまた、天地の間にあります。地から食をいただき、天から光や空気をいただき、その間で生命を営む。

そう考えると、一本の竹を眺めることも、ひとつの養生になるのかもしれません。

竹林に入ったとき、少しだけ立ち止まってみてください。

  • 竹の根は、どこにあるのか。
  • 竹は、どこへ伸びているのか。
  • そして、その「空洞」は、何を通しているのか。

そこに、東洋医学が大切にしてきた、「天地人」

の姿が、静かに見えてくるかもしれません。

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