天地とともに生き、万物とともに遊ぶ
これまで二回にわたって、蝉の生態と、その抜け殻である蝉蛻という生薬について見てきました。 生物学としての蝉、本草学としての蝉蛻。 最終回となる今回は、少し視点を変えて、古代中国の思想家・荘子が蝉をどのように描いたのかをたどりながら、「蝉が教えてくれる生き方」について考えてみたいと思います。
「蝉は、ただ夏を生きる」
『荘子』には、蝉が何度も登場します。 中でもよく知られているのが、次の一節です。
螳螂捕蟬、黃雀在後 (カマキリは蝉を捕えようとし、その後ろには雀が待ち構えている)

この話が伝えているのは、「目の前の利益ばかりを追いかけていると、その背後にある大きな危険を見落としてしまう」という教えです。
蝉はただ夢中で鳴き、カマキリは蝉だけを見つめ、雀はカマキリだけを狙う。それぞれが目先のことに心を奪われるあまり、自分を取り巻くもっと大きな世界が見えなくなってしまう。荘子が伝えたかったのは、目先の損得だけでなく、もっと広い視野で天地を眺めよ、ということでした。
虫の眼ではなく、鳥の眼で
以前、和み塾でご紹介した『黄帝内経』の言葉に、次のようなものがあります。
上知天文、下知地理、中知人事 (天を知り、地を知り、人を知る)
『素問』の「気交変大論(きこうへんたいろん)」にかかれている言葉です。優れた医術や真理(道)を修める者は、上・下・中の3つの領域をすべて理解し、調和させなければならないと説いています。
中知人事(中は人を知る):
人間の感情(情志)、食事や睡眠などの日常生活、さらには社会の変化を理解することです。これらが体の中でどのように変化(生理・病理反応)するかを知ることを指します。
上知天文(上は天文を知る):
天体の運行や四季の移り変わり、気候の変化(気象)を観察・理解することです。これらが万物の生命活動のベースとなります。
下知地理(下は地理を知る):
地域の環境、土地の性質、水質、物産などの地理的条件を把握することです。住む場所が体に与える影響を見極めます。

これは医師だけに求められる姿勢ではありません。日々を生きる私たち一人ひとりにとっても、大切な心構えです。
目の前の忙しさや、その日その日の不調ばかりに心を奪われていると、私たちは自分を取り巻く自然の大きなリズムを見失ってしまいます。夏の朝に響く蝉の声に耳を澄ませることは、単に季節の風物詩を楽しむだけでなく、一年という大きな流れの中に、今の自分がどう位置しているかを感じ取る時間でもあるのです。
脱皮とは「昨日の自分を脱ぐ」こと
蝉は、数年という長い年月を暗い土の中で静かに過ごします。そして、時が満ちれば迷うことなく地上へ這い出し、古い殻を破って新しい姿へと生まれ変わります。

東洋医学では、夏は「発陳(はっちん)」の季節とされています。冬の間に内へ内へと閉じ込めてきたものを、外へと発散させ、新しい生命力を育んでいく季節です。蝉が見せる脱皮という営みは、この自然の法則を、私たちに身をもって示してくれているようにも見えます。
古い自分にしがみつくのではなく、時が来れば思い切って殻を脱ぎ、新しい自分へと進んでいく。蝉の一生には、そんな生き方の指針が静かに込められているのかもしれません。
夏は「精いっぱい生きる」季節
蝉は地中で何年もの時間を過ごしますが、地上で過ごす時間はそれに比べればごくわずかです。けれども蝉は、その短さを嘆いているようには見えません。朝日とともに鳴き、陽をたっぷりと浴び、風を感じながら、与えられた一瞬一瞬を精いっぱい生きています。
『黄帝内経』は、夏の過ごし方についてこう説いています。
使志無怒、使華英成秀、使気得泄 (心をのびやかにし、生命を十分に花開かせ、陽気を発散させなさい)
蝉はまさに、この教えを全身で実践している生き物なのかもしれません。汗をかくことを恐れず、冷房ばかりに頼らず、心をのびのびと解き放つ。それが、東洋医学が説く夏の養生であり、蝉が体現している生き方でもあります。
黄帝内経素問 四気調神大論篇 第二 「夏三月、此謂蕃秀。天地氣交、萬物華實。夜臥早起、無厭於日。使志無怒、使華英成秀、使氣得泄、若所愛在外。此夏氣之應、養長之道也。」
天地とともに生き、万物とともに遊ぶ
荘子の思想を象徴する言葉のひとつに、次のようなものがあります。
與天地精神往來、與萬物為一 (天地とともに生き、万物とともに遊ぶ)
細かな出来事の一つひとつに一喜一憂するのではなく、天地の大きな流れの中に自分自身を置いて生きていく。この荘子の世界観は、天と人とが応じ合うという東洋医学の根幹とも、深いところで響き合っています。
和み塾からのメッセージ
私たちは、とかく身体の不調そのものにばかり目を向けがちです。けれども東洋医学は、病気だけを見つめる医学ではありません。天地のめぐりを知り、その中で自分がどう生きていくかを考えるための医学でもあります。
夏になれば、蝉が鳴きます。それは単なる季節の風物詩ではなく、
「陽気が満ちていますよ」 「あなたも自然のリズムに合わせて、生き生きと過ごしてください」
という、天地からの静かな便りなのかもしれません。
地中で数年を過ごし、一夏を精いっぱい生き抜く蝉。その姿は、「夏を知らせる虫」であると同時に、「天地のリズムに従って生きることを教えてくれる師」でもあります。
次に蝉の声が聞こえたら、ほんの少し足を止めて、耳を澄ませてみてください。自然は、いつも変わらず、私たちに生き方を教えてくれています。
――生態としての蝉、生薬としての蝉蛻、そして荘子が描いた生き方としての蝉。三つの視点をたどってきたこのシリーズが、皆様にとって、夏という季節をより深く味わうきっかけとなれば幸いです。



